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■本文(P52-56)

宗教思想の諸相

一、宗教的実在観
宗教的実在とは、宗教を信ずる人びとによって、
真に実在するもの、真実の存在、とみなされているもの 一般をさす。
宗教的実在は、人格的と非人格的、あるいは、形態的と非形態的とに大別することができる。

■(1)人格的実在
宗教的実在としての人格的実在の代表は「神」である。 
岸本英夫は、神の概念として、超自然的な、独立の、個体的な存在、一般的な人間とは、はっきり異なるが、
人間の心を理解する能力をもっているという意味で人格的、強力な力と、自由な意志とを所有、という三点を指摘し、これらの三点を備えた存在を「神」としている。
すなわち、強力な力を有する超人間的、超自然的な、独立した人格的存在であって、
しかも、人間の心を理解しうる能力としての知覚・感情を備え、かつ、自由な意志をもっている存在であって、
ユダヤ教のヤーウェ (Yahwéh)、キリスト教のゴッド(God)、イスラム教のアッラー (Allāh)、 古代イ ンドのブラフマー (Brahmā)、 ヴィシュヌ (Visnu)、 シヴァ (Siva)などの神々、
古代ギリシアのゼウス (Zeus)を中心とするオリンポス山の神々、古代ローマのサトゥルヌス (Sāturnus) やユピテル (Jüpiter)、 ゲルマン民族の一派で、
北欧に住んでいたチュートン人の主神オーディン (Odin または Woden)、わが国 の八百万のカミ、
さらには、大乗仏教における阿弥陀仏、毘盧舎那仏、薬師仏などの諸仏、等々が含まれる。
また、独立した、人格的・形態的存在ではあるが、必ずしも明確な個性を持たず、したがって、固有名詞をもって呼ばれない、「デーモン」 (démón 霊鬼)と称される一群がある。
デーモーンは、神と比べて、 やや下級な存在であるが、それらの中には、かつて神であったものが、異なった系統の宗教との接触・混合 などに際して、神から格下げされたものもある。
デーモーンの訳語として「霊鬼」のほかに「悪鬼」「悪魔」が用いられる例からもわかるように、 デーモーンは、おうおうにして、邪悪な存在として受けとめられる傾向がある。
また、人間をはじめ動物・植物などの生物と山岳・岩石などの無生物とを問わず、外形を有するものに宿り、
また、その宿り場を自由に出入りでき、また、空中に浮遊して存在することもできる超自然的で人格性を備えた存在がある。
霊魂 (soul) 死霊 (ghost) 精霊 (spirit) などである。 これらの霊的存在は独立 した人格性を備えてはいるが、形態的でないという点で、デーモンとも区別される。
以上述べた「神」「デーモン」そして、「霊魂」 「死霊」「精霊」などの霊的存在の間の区別は、必ずしも明確ではなく、その位置づけや属性などによって区別されている場合が多い。
したがって、これらを一括して「神霊」と称することのほうが、より適切であるともいえる。

[神観念の諸相]
宗教史の上に現われる神、とくに形態的に表現される神霊の様相は、きわめて複雑である。
神霊は、その 基本的な特性から、自然的なものと人間的なものとに分けられる。
自然的なものとしては、太陽・月・星辰・ 天空大地・山・川・海・湖などの天体現象や
自然現象に、風・嵐・雷・雨などの気候現象をも含めた自然崇拝、
樫・樅・杉・松・柏・楠・榊などの大樹・老樹を聖樹として崇拝する樹木崇拝、
穀物や薬用植物などを対象とした植物崇拝、象・ライオン・虎・熊・蛇・鷹・鳩などの動物崇拝、などにみられる崇拝の対象である。

人間的なものとしては、武人・賢者・聖者・王などを神格化して英雄として祀る英雄崇拝、
古代ローマに みられる皇帝崇拝、家族・氏族、さらには、民族それぞれの特定の先祖の霊を祀る先祖崇拝などがある。
さらに、自然的なものと人間的なものとの中間、ないしは混合形態のものもある。たとえば、エジプトの アヌビス (Anubis) は、
死者の心臓を秤にかけて、その生前の行為を審判する死の神とされているが、 山 犬の頭をもった獣頭人身の姿で表わされている。
また、ギリシアの牧神パン (Pan) は、山羊の足をもつ人 頭獣身の姿をしている。

多数の神々をもつ多神教の宗教体系においては、神々の間に職能の分担がみられる。
ギリシア神話のアス クレピオス (Asklepios) は、 医薬・治療を司る神であり、
古代エジプトのプタハ (Ptah)は技術の神、 古代バビロニアのイシュタル(Ishtar) は豊饒の神、
わが国の水天宮の祭神は安産の神、天満宮の祭神は学 問の神とされている、などである。
これに対して、一神教の神は、唯一絶対にして全知全能の神であり、無からすべてをつくり出す創造主であって、
自然や人間によって左右されることなく、その超絶的な自由な意志によって、すべてを支配する神である。

■(2)非人格的実在
宗教的実在には、人格的実在として形態的に示される存在のほかに、超自然的・非人格的な力の作用として把握されている実在観がある。 

メラネシア原住民たちにおけるマナ (mana) は、非人格的・超自然的な力の観念であり、人生の吉凶禍福を左右する根本的な作用として、マナが実在すると信じられている。
このメラネシアのマナに相当する力の観念は、世界各地の未開民族の間にも見られ、
たとえば、アメリカ・インディアン諸族で、オレンダ (orenda) とかワカン (wakan)と呼ばれているもの、
インドネシアでメ ナング (menang)、マダガスカルでハシナ (hasina)、オーストラリアでチューリンガ (tjuringa)と呼ばれているものなどがそれである。
また、全宇宙を支配する根源的な法則、あるいは、全世界を根底から支えている究極的な理法、といった実在観もある。

古代インドのリタ(rta, 天則)は、宇宙を支配する根本的な法則であり、ブラフマン(brahman, 梵) は、宇宙の最高究極の原理である。
仏教におけるダルマ (dharma,法)も、宇宙の根本的理法や真理を意味する。
古代中国の「天」や「道」も、宇宙に遍満する真理、自然界人間界の根本原理を示す実在の観念であり、
古代ギリシアのロゴス (1ógos)も、宇宙秩序の根本原理としての理法を示す実在の観念であった。