書籍_奇妙な果実 - ntuf/Tips GitHub Wiki
私はピアノに「ひとり旅traveling all alone」をたのんだ。
どの歌よりも、私の気持ちには、この歌が打ってつけだった。
この歌のある部分が、ふっと頭に浮んだためだったかもしれない。
とにかく、クラブ中が、シーンとなった。 もし誰かがピンを落したらバクダンのように聞こえたかもしれない。
私が歌い終えたとき、客は皆ビールを前に泣いていた。
私はフロアーから38ドルのチップを拾い上げた。その晩、そこを出るとき、ピアニストと山わけをしたが、
それでもまだ五十七ドルあった。
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「君は今までに、あんなに遅く、けだるく、ものうげに歌うのを聞いたことがないはずだ」と言ったが、
それでも私にレッテルを貼ることができなかった。思うに、これが私に与えられる、最大の讃辞だったらしい。
人々は私を他の歌手に比較しないで、他を私に比較した。
「別にブルースじゃないんだ。何と言ったらいいのかな。とにかく聞かなきゃわからんさ」
〜
子供の頃聞いた、ベッシースミスとルイアームストロングのレコードを除いて、
後にも先にも私は、他人から影響を受けたことがない。私はいつもベッシーの大きな声と、ルイのフィーリングを求めていた。
若いファンはよく私に、私のスタイルはどこから出て、どう発展したかと聞く。何と答えられよう?
もしこおに曲があり、それを歌いたくなったとして、何を考えて歌い出すのだろう。考える必要はない。
ただ感じとればよいのだ。その感じたものを率直に歌えば、聞く人は何かを感じるのである。
私の場合は考えたり、アレンジしたり、練習するなどということは不要だ。感じることができる曲だけが必要なのだ。
これは勉強というようなものではなかった。ときには私があまり感じすぎて、歌うことすらできない曲もすこしあるが、
それはまた別の話だ。
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もはや私には、決心を変える機会も、和解の端緒もみあたらなかった。私は十歳のとき、四十男に強◯されて留置された。
心の痛手はそれだけでも充分だったのに、周囲はさらにカソリック教会に、私をとじこめた。私にそれ以上の罰は不要だったのに。
それ以来、私はあの時のことを夢にみ、叫び声や恐怖で何度めざめたことか。思い出すのさえ恐ろしい経験は、
何年も何年も決して拭いさることができぬ悪夢の如きものとして、私をさいなむのであった。
最初の罰は、しかたないとして諦めよう。だが二度目のは過重であった。私はそのあと、不具者になってしまった。
私は率直に他人を見つめることができなくなった。立ち直る一つのチャンスさえなかった。
私が子供の頃に受けた傷を、しらない男がひとりでもいるとは思えない。接するすべての男たちは、
一旦喧嘩となると、私の後ろからあの忌まわしい出来事を口に出して、私をうちのめそうと考えている人々としか見えなかったのだ。
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愛され、信じられる人を持つことは幸福だ。私にはそのような人がいなかった。家族も愛人も、しんから私を愛してくれはしなかった。
私には、トニー・ゴルッチとジョー・グレーザーだけしかいなかった。そしてこの二人の愛を除けば、
あとは、法律と時の流れと、金の動きしかないこのような中で生きていくのは苦しいことだ。
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私はそれを見た。それは「くちなしをつけた貴婦人」とか「私の髪のくちなし」とか、そんな題で、私が昔髪にさして歌っていたくちなしの花を讃えたものだ。
その頃の私は、髪に花を飾らなければ、歌うことができなかった。
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