私はこの話を - asamesi/mae GitHub Wiki

 私はこの話を、かつて、日本の一工兵将校に話してきかせ、その所見をたゞしてみた。彼は直接に私の問に答へず、その代り、彼がアメリカ留学時代、たまたま、所属してゐた工兵学校の教官が、学生一同に「技術者の責任」といふ話をしたことを想ひ出したと云ひ、これとよく似た実話を私に伝へてくれた。それは、ある地方のダム工事を設計監督した一技師が、竣工式の当日、関係者多数の面前で、工事の一部に大きな欠陥があることを発見し、甚だ面目を失した。が、彼は、その日から、設計をやり直し、工事の完全な結果を見届けて、自己の責任を果した末、いく日か後に、ひそかに自殺した――といふ話である。  こゝまで行けば「責任感」といふ道徳の価値がはつきり浮びあがつて来る。  東西の道徳の相違は、また、東西の「世間」の相違ともなる。  われわれ日本人が、何かしらに脅えてゐる表情は、この「世間」を「悪意に満ちたもの」としてまづこれに対してゐるといふところから来る。           *  先日来の新聞に、進駐軍司令部から続いて発せられた二つの興味ある「脅迫禁止」の指令がのつてゐた。当事者はおそらく、それが「脅迫」になるとは思つてゐなかつたかも知れぬが、それほど、これに類する事実は、日本では月並で、誰も問題にしなかつたのである。そこがまた私には興味のあるところで、「脅迫する」方も、「脅迫される」方も、平生は、別にそれほどのことと思はず、お互に習性のやうになつた感情のやりとりを平気でしてゐるわけである。それは結局、ちよつとした意志表示が「脅迫」の色を帯び、あたり前の要求が「脅迫」めいて受けとられることにもなるのであつて、われわれの生活と「脅迫観念」とがつねに離れがたい関係にあるといふ一面に通じるのである。大山駅ハッピーロード内の美容院