旧い教科書ではあるが - asamesi/mae GitHub Wiki
旧い教科書ではあるが、第四学年であつたかの修身に「責任」といふ標題をつけた一文がのつてゐた。九州の、農村で画期的な水利工事を完成した人物の事蹟を伝へたものである。その人物がいよいよ工事を完成し、村民あまたの前で、石の水道に水を引いてみせるといふ日の朝、家を出るに当つて、短刀を懐ろに忍ばせ、万一、工事に不備なところがあつたらその場で腹を切る覚悟をきめてゐた、といふ話である。この人物は幸ひ腹を切らずにすんだが、いつたい、なぜ、工事がうまくいかなかつたといつて腹を切らねば気がすまぬのか? これは決して純然たる「責任感」のためではないにきまつてゐる。いはゆる「面目がつぶれる」と自分で思ひ込むからである。「面目」といふのは、元来「矜り」とはいくぶん違ひ、それより一層、相手を意識し、相手の思惑を勘定に入れた、他人の眼にうつる自己の値打を意味する言葉であつて、この場合、自分の失敗が公衆によつてどう受けとられるかといふ予想が知らず識らず前提となつてゐるのである。彼は、自分の仕事に精根を打ち込んだであらうが、それと同時に、世間が自分の仕事の真の性質を理解せず、その成否にのみ興味をつなぎ、結果によつては、彼の着眼と努力とに一顧の礼も払ふことなく、たゞ、嘲罵を以てこれに酬いるであらうといふこと、つまり「世間」の実体を身にしみて知つてゐたのである。彼はおそらく、責任感の強い人物であつたらう。しかし、それ以上に、自尊心の強い男であつたに相違ない。工事の成否よりも、ことによると、自分の面目の方を重大に考へる一個の人物が目に見えるやうである。しかしそれは決して、彼に限つたことではあるまい。人物教育はさういふ風に行はれた時代であり、当時の「世間」はまた、是が非でも、不運な彼を殺さずにはおかぬ「世間」なのである。それは必ずしも責任を問ふなどといふ意味ではなく、失敗を恥辱として嘲笑し、人を嘲笑することを無上の快とする風習のためである。2/24リニューアル赤羽の美容室