名乗り合つてからの二人は - asamesi/mae GitHub Wiki
名乗り合つてからの二人は、前の二人とは別人同士であるやうな親しみを、お互に感じ合つてゐた。 青年は羞み家であるが、その癖人一倍、人懐い性格を持つてゐるらしかつた。単なる同乗者であつた信一郎には、冷めたい横顔を見せてゐたのが、一旦同じ学校の出身であると知ると、直ぐ先輩に対する親しみで、懐いて来るやうな初心な優しい性格を、持つてゐるらしかつた。 「五月の十日に、東京を出て、もう一月ばかり、当もなく宿り歩いてゐるのですが、何処へ行つても落着かないのです。」と、青年は訴へるやうな口調で云つた。 信一郎は、青年のさうした心の動揺が、屹度青年時代に有勝な、人生観の上の疑惑か、でなければ恋の悶えか何かであるに違ひないと思つた。が、何う云つて、それに答へてよいか分らなかつた。 「一層のこと、東京へお帰りになつたら何うでせう。僕なども精神上の動揺のため、海へなり山へなり安息を求めて、旅をしたことも度々ありますが、一人になると、却つて孤独から来る淋しさ迄が加はつて、愈堪へられなくなつて、又都会へ追ひ返されたものです。僕の考へでは、何かを紛らすには、東京生活の混乱と騒擾とが、何よりの薬ではないかと思ふのです。」と、信一郎は自分の過去の二三の経験を思ひ浮べながらさう云つた。 「が、僕の場合は少し違ふのです。東京にゐることが何うにも堪らないのです。当分東京へ帰る勇気は、トテもありません。」足立区 家庭教師