会津藩と新撰組 - asamesi/mae GitHub Wiki

 斯くて、会津藩と新撰組は、午後八時を期して、祇園会所に集合する筈であつたが、会津側が人数の繰出しに時間がかゝり、午後十時近くなるのに、約束の場所に参着しない。  血気の近藤勇は、一刻を争ふ場合と考へ、独力新撰組を率ゐて、検挙に向ふことになつた。  隊員三十名を二分して、近藤勇自ら一隊を随へて、池田屋へ、他の一隊は、土方歳三統率して、四国屋へ向つた。  恰度、祇園祭りの前の夜で、風はあつたが、何となく蒸す夜であつた。  その時、池田屋では、長州の吉田稔麿、肥後の宮部鼎蔵等総勢二十余名が集合し、 「今夜は壬生に押寄せて、古高俊太郎を奪ひ還さう」  と、云ふので酒を飲みながら、夜の更けるのを待つてゐた。  彼等は、粛々としてその身に迫る死の影を知らず、尚も三策の評議に余念がなかつた。三策とは即ち次の三つだ。

○壬生屯所を囲み、焼討して新撰組を鏖殺し、京都擾乱に乗じて、長州の兵を京都に入れる。 ○成功の場合には、宮中を正論の公卿を以て改革する。 ○京都一変の上は、中川宮を幽閉し奉り、一橋慶喜を下坂せしめ、会津藩の官職を剥奪し、長州を京都の守護職に任ずる。 足立区 北区 家庭教師