ハイカラな家庭といへば - asamesi/mae GitHub Wiki

 ハイカラな家庭といへば、必ずしも、夫婦が一緒に手をつないで散歩し、子供に、「パパ」「ママ」と呼ばせ、……などする家庭のことをいふのではなからう。  ハイカラな文章といへば、必ずしも片仮名の英語が交り、何々するところのそれは……といふやうな翻訳臭があり、などする文体を指してはゐまい。 「ハイカラ」とは、気がきいてをり、あかぬけがしてをり、軽快であるばかりではない。それは常にもつとも「理知的な眼」を意味する。そこでは、常に、「溌剌たる才気」がもつとも「約ましい姿」を見せてゐる。 「ハイカラ」とは、また、自由な均整であり、聡明な型破りであり、節度あるフアンテジイであり、要するに、一つのもつとも洗煉された反逆的精神である。「ハイカラ」が模倣と流行を敵とする所以はここにある。 「粋」が陰性なるに付し、「ハイカラ」はあくまで陽性なることも注意すべきであらう。一口に「さばけて」ゐるといふが、粋な「さばけ方」とハイカラな「さばけ方」とでは、格段の差がある。  私はここで、「ハイカラな文学」について語りたい。  日本文学に於いて、ハイカラな作品といへば、私はまづ、指を「枕草紙」に屈することを躊躇しない。「源氏物語」にも、多分の「ハイカラ」性を発見するが、恐らくあの時代の女性中でも、わが清少納言の如きハイカラは少なかつたに違ひない。彼女の生活はあまり多く知られてゐないが、その芸術を通じて観た「ハイカラさ」のみについて考へても、現代の作家たちさへ、なかなか及び難いものを感じさせられる。表参道の美容室