エタと掃除 - asamesi/mae GitHub Wiki

 徳川時代にも、エタ以外に「掃除」という賤民のあった地方がある。本誌一巻二号三十八頁に書いておいた通りで、阿波に於いてはそれが猿牽と共に、往々人形使いや義太夫語りになっている。この掃除は、阿波では美馬・三好地方に多かった様であるが、他ではエタや猿牽・茶筅の中へ雑ってしまったのであろう。京都地方のエタは、徳川時代の始めには下村勝助統率の下に、二条城の掃除が公役であった。また禁裏のお掃除をする小法師というものも、また京都付近のエタであった。「雍州府志」に、

禁裏院中掃‐棄塵埃者謂覆。是丹波山国之人。

 と云い、「塩尻」(「古事類苑」引)にも、

禁裏院中の御築地の塵穢を掃ふ者は、丹波国山岡(国の誤謬)より来り、是を己募志といふ。塵穢を覆ひ棄るの謂歟。

 とあるのによれば、もと山国から出ておったかとも思われるけれども、少くも元禄・正徳の頃には、禁裏のお掃除役たる小法師は、主として天部部落から出ておった。「京都御役所向大概覚書」に、

余部村小法師勤方

一、禁裏御目通御庭掃除、余部村小法師八人え被仰付候訳、左に記之。

西院村より        米六石三斗三升八合 三条縄手裏        同五斗五升 知恩院東川ばた屋敷    同一斗一升八合

右の通三ヶ所より知行被下之候。此外に御切米四石、二月・十一月両度に被下。掃除被仰付候節は、為中飯壱人に米七合宛被下之候由。 右者従古来掃除役人之名小法師と名付、今以知行御切米被下之。則余部村に六人罷在候。寺町今出川下町壱人、上立売下ル瓢箪之図子に壱人。右弍人は掃除御用之触夫いたし、右八人として相勤申候由。  とある。 ネットナンパのやり方を詳しく解説しているブログ→ネットでナンパしてみた結果wwwwwwwwwww|ナンパブログ