その点については - asamesi/mae GitHub Wiki

 その点については、新古今風の創造に若い空想を傾けつくしていた頃の定家に、どれだけの自覚があったか疑わしく思う。むしろなかったのが当然なのであろう。ところが実朝に『近代秀歌』を送る頃になるとはっきりそれは体を成して来ているのである。  その第一は、『万葉』でなく、『古今』へ帰れといったことで、第二は、『古今』の中でも貫之以後をあまり褒めず、その以前にかえれといったことであり、第三は、漢詩との対立を意識して、和歌の特性を優しい点にみとめようとした点にある。

註 右の第一は『詠歌大概』に「詞は三代集を出づべからず」といっており、第二は『近代秀歌』に「昔、貫之、歌の心たくみに、たけ及びがたく、詞強く姿面白き様を好みて、余情妖艶の体を詠まず」といい、その後この系統が堕落して歌らしくもなくなったといい、暗に『千載集』以前の智巧的傾向を圧え、近き世に再び姿がかわって「花山僧正・在原中将・素性・小町がのち、絶えたる歌の様わづかに聞ゆる時侍る」といっている。つまり貫之より前の六歌仙時代、短歌が文学的創作となりはじめの純抒情歌であった時代を鋭く掴んでいるのである。それをもっと端的に「詞は古きをしたひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿をねがひて、寛平以往の歌にならはば自づからよろしき事もなどか侍らざらむ」ともいっている。第三は『毎月抄』に「まづ歌は和国の風にて侍る上は、先哲のくれぐれ書き置ける物にも、優しく物あはれに詠むべき事ぞ見え侍るめる」とある。 新宿発の高級デリヘルASK http://mg1.jp/u3/kunsi/