これらの歌を読んで分ることは - asamesi/mae GitHub Wiki

 これらの歌を読んで分ることは、『千載』『新古今』と根本にちがう世界ではないということである。ただはっきりいえることは、前に精しくふれた『新古今』の色彩的絵画的な錦繍調が減って、むしろ千載調に近くなっているということである。これはさもあるべきことで、年齢の上から見ても『千載集』をえらんだ頃の俊成と似た境地へちかよりつつあったといえるであろうけれど、むしろそれよりも、我が子為家に和歌の学問を伝えようとする熱望が、逆に父俊成の庭訓を承け継ぐ気持を強くしたのであって、封建時代の特色である世襲の観念が、和歌のように文学的創作文学になり切った文芸の世界においても、個人の創意を凌いで芽を吹いてきたしるしなのである。定家の四十を越して感じはじめていた鑑賞力の転変の底には、このようにして、和歌そのものを創意的なものとするか、それとも伝統的なものとするかの動揺が含まれておったのであった。平安時代四百年に、三十一音の短歌形式を護ることによって、詩歌は民謡から文芸へと昇華したが、今や文芸としての和歌は、形式を護る上に、さらにその形式にともなうところの文芸性を護ることによって、伝統を中世に伝えようとしている。新古今調から離脱して千載風なものに近くなっていった定家の感覚には、精神生活の上へまで押し寄せてきている中世封建の空気に順応して、己を活かし切ろうとする本能的な敏感さを認め得られるのである。封建制度の中ではもちろん文芸は変る。文芸を護る人の心がけも変るのである。品川発の高級デリヘルASK http://houshoku.otope.net/