いやさうでもありません - asamesi/mae GitHub Wiki
「いやさうでもありません。」さう云ひながら、青年は力無ささうに口を緘んだ。簡単に言葉では、現はされない原因が、存在することを暗示するかのやうに。 「学校の方は、ズーツとお休みですね。」 「さうです、もう一月ばかり。」 「尤も文科ぢや出席してもしなくつても、同じでせうから。」と、信一郎は、先刻青年の襟に、Lと云ふ字を見たことを思ひ出しながら云つた。 青年は、立入つて、いろ/\訊かれることに、一寸不快を感じたのであらう、又黙り込まうとしたが、法科を出たものの、少年時代からずつと文芸の方に親しんで来た信一郎は、此の青年とさうした方面の話をも、して見たいと思つた。 「失礼ですが、高等学校は。」暫らくして、信一郎はまたかう口を切つた。 「東京です。」青年は振り向きもしないで答へた。 「ぢや私と同じですが、お顔に少しも見覚えがないやうですが、何年にお出になりました。」 青年の心に、急に信一郎に対する一脈の親しみが湧いたやうであつた。華やかな青春の時代を、同じ向陵の寄宿寮に過ごした者のみが、感じ合ふ特殊の親しみが、青年の心を湿ほしたやうであつた。 「さうですか、それは失礼しました。僕は一昨年高等学校を出ました。貴君は。」 青年は初めて微笑を洩した。淋しい微笑だつたけれども微笑には違ひなかつた。 「ぢや、高等学校は丁度僕と入れ換はりです。お顔を覚えてゐないのも無理はありません。」さう云ひながら、信一郎はポケットから紙入を出して、名刺を相手に手交した。 「あゝ渥美さんと仰しやいますか。僕は生憎名刺を持つてゐません。青木淳と云ひます。」と、云ひながら青年は信一郎の名刺をぢつと見詰めた。 訪問歯科 川口