いや、そこぢやいけません - asamesi/mae GitHub Wiki
底野 いや、そこぢやいけません。絶対にいけません。苟くも国家のために犠牲を払はれた同胞の一人に対して、そんな待遇はできません。さあ、どうか……。それとも、おからだに、どこか御不自由なところがおありですか。靴をお脱がせしませうか。 男 いや、それには及びません。ぢや、ちよつと、こゝへ掛けさして貰ひます。えゝ、この証明書にもあります通り……。 底野 (それをさつきから読んでゐる)はあ、僕、これくらゐのものなら読めますから……。なるほど、間違ひはないやうですな。 男 はゝゝゝゝ。どうも、近頃、偽物が横行して、われわれは迷惑しとるです。 底野 本物はやりきれませんな。 男 何しろ、戦争当時乃至直後に於ては、世間も出征軍人とか、名誉の負傷者とか云つて、ちやほやしてくれますが、だんだん時日が経つにつれて、熱が冷め、忘れ勝ちになり、たうとう、振り向いてもくれないといふ有様です。 底野 よくしたもんですな。人間の冷やゝかさは、恋愛の末期にだけ現れるんぢやありませんね。 男 所謂、癈兵、今日では別の名前がついてをりますが、その方が通りがよくて重宝です。この癈兵などに対する社会一般の態度は、日に日に、無関心を通り越して、一種の軽蔑反感にまで達してゐる。これは、われわれ一同の甚だ心外とするところで、かの戦場で、生命の一つ手前までを捧げた勇士の末路として、かくあらねばならぬかといふ疑ひをもつんです。 底野 御尤もです。失礼ですが、日清ですか、日露ですか。 男 わたしは日露です。得利寺の激戦で、この通り、片腕をもぎ取られました。わたしなどはまだ仕合せな方で、今、この向ひ側を廻つてゐる男などは、両腕と片足を奇麗に浚はれちまひました。これは奉天です。 経堂 歯医者