「注画讃」 - asamesi/mae GitHub Wiki
「注画讃」にも、その父重忠が安房州長狭郡東条郷の片海、市河村の小港浦に流されて漁叟となるとあって、その漁夫の子たることを認めているのである。聖人は事実漁家の子として生れられたのであったに相違なかろう。漁夫はもちろんいわゆる屠者ではない。したがっていわゆる旃陀羅でもない訳である。しからば何故に聖人は、自ら一方では旃陀羅の子なりと云い、旃陀羅が家より出でたりなどと繰り返しておられるのであろう。これについては当時の漁夫の社会的地位を明らかにせねばならぬ。 漁夫はすなわち海人で、古えにいわゆる海部の部族である。これを民族的に論ずれば、海部も農民も本来敢えて区別のあったものではないが、農民が公民として社会的地位を獲得した後においては、彼らは取り遺されて一種賤しいものとして見られていたのであった。この事は「日本紀」などにも証文がいくらもあり、ここにこれを論ずることは問題があまりに枝葉に流れるから、しばらくその説明を他日の機会に保留することとして、仏教流布の後においては、彼らは通例殺生者の仲間として、その化縁外に置かれたものであった。飛蚊症 ガイド