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全章を通じて「経験的な知識」に的を絞っていることに注意(分析的な知識については俎上に挙げていない。それらに境界が存在するかについても触れない)。

第 I 部 (1章-4章)

色々な知識: 以下のように幾つかの(一見異なるような)概念が知っているという言葉に充てられる

  • know-that: 命題知。事実に関する知識。
  • know-how: 知識がある種の能力と直結する知識。
  • know-what: ヴェジマイト(とある健康食品の名前)が何を示すのかの知識。
  • know-what-it-is-like: ヴェジマイトを食べたときに獲得される感覚に代表される知識。

正当化に関する重要な問い: ある信念が知識とみなされるには「正当な」理由が必要とされる(causeではなくreasonが必要)とされるが、その正当性はどのように決められるべきなのか?

正当化基準に関する重要な問い: 知識の正当化に関して「Yしたいのであれば XはPと信じる正当な理由だ」のように目的を相対化したとき「Y = 世界の在りようを間違えずにとらえたい」となる。すると X の正当性は、認識論的な目的によって測られることになる(正当化基準のメタ正当化 metajustification)。

知識を獲得する推論: 演繹的推論は、前提に帰結の情報が含まれているという性質を持っている以上、演繹的推論を通じて知識を獲得することができない(が無謬である)。かたや 知識を獲得する推論として 帰納的推論やアブタクションがあるが、それは可謬である。

正当化と無限後退: Xの理由がYであり、Yの理由がZであり、・・・と続けていくとXの正当性を確認する作業が終わらなくなる(無限後退)。しかし、それをもって直ちに問題であるとする必要はないという考えもある。つまり、Xの理由に関し「もしXの理由を尋ねられればYであると応じられる」、ということさえ了解していればよく、実際に無限に後退する必要はないと主張することは可能。

正当化の基礎づけは困難: 強い基礎づけは 基礎的信念がトートロジカル=無情報であるため上手くいかない。穏当な基礎づけは 基礎的信念が無謬であることを前提とせず 単にその他の何らかの方法で正当化された存在であると見なす。しかし、ボンジャーの論証で(幾つかの仮定のもとで)そのようなものはあり得ないと結論付けられてしまう。

ボンジャーの論証: ある信念Pを持つならその正当化理由Qが心にあるはず。Qが心にあるなら、「Qが真」を帰結とする前提Rが存在し, Rも正当化されたものとして信じる以外にない。ということは どんな信念もそれを正当化されたものとして信じるためには少なくても1つ別の正当化された信念を信じていなければならない。つまり、基礎的信念なんてないのではないか?

非信念論的・内在主義な基礎づけ主義: ボンジャーに対しての応答例「基礎的信念の正当化理由は信念という形で心になく、より原初的な何らかの認知状態 X であり、X はそれ以上の正当化を必要としないが、X は正当化を与える能力を持つ」。この考えは、信念論的ではない(=信念以外のものに支えられる)が、内在的(=心の中の陳地状態だけによって信念の正当性が決まる)といえる。「所与の神話」という痛烈な批判にさらされている。

外在主義的な基礎づけ主義: ボンジャーに対しての応答例「基礎的信念が正当化されるとは、その信念が外界と何らかの関係 R を持つことであり、Rの成立が基礎的信念を受け入れる理由となるが、信念の所持者はR の成否に認知的なアクセスを必ずとも必要としない」。R が信頼のおける(=法則的関連が成立する)プロセスによって形成されるというものと置くのが信頼性主義と呼ぶ。信頼性主義を含む外在主義は遡行問題とゲディア問題によい説明を与える。

ゲティア問題: 古典的な知識定義に対して反例を示したのがゲティア問題。「アリスは 正当化された信念P から信念Q を帰結し、実際Qであった。だが アリスは Q を知っていたと見なせない例がある。P: ボブが当選者で身長が160cm, Q: 当選者は160cm, 事実: 身長160cm のチャーリーが当選者」

知識の因果説: ゲティア問題への応答「知識の古典的定義に次の条件を付け加える:正当化された信念Pは、世界におけるPという事態に起因する」。つまり正当化に世界における事態を持ち出すという外在主義的なアプローチで応えるものだ。一方、逸脱因果(=適切でない因果)を排除できなかったり、数学的事実に関連する知識を説明できない。

反事実的な分析: ゲティア問題への応答「知識の古典的定義に次の条件を付け加える:"現実の事態がPでなかったなら、Pという信念を持たなかっただろう"が成立する」。信頼性主義と紙一重な応答といえる(反事実的想定は成立してさえすればよく、本人が知っていることまでは要求しないため)

内在主義v.外在主義: 規範性という観点では内在主義者は信念の形成に規範性を求めるのに対し、 外在主義者(特に信頼性主義)は信念の形成プロセスの妥当性に規範性を求める。突き詰めて言えば「正当化という規範的要素を 認識者本人に帰着させるか否か」に大きな違いがあり、両者が相容れない要因となっている。

内在主義v.外在主義2: 内在主義は正当化とはなにかを説明するのに適しており、外在主義は知識とは何かを説明にするのに適している。 つまり、我々が何気なく知識を持っている事柄や動物における知識概念を説得的に説明できるのに対し、人間の知識の拡大においては その正当化というプロセスが決定的な役割を果たしてきた。

ラディカルな外在主義: 古典的な知識定義をひっくり返す考えもある。正当化を知識の必須の要件とみなさなず、正当化とは知識を獲得する道具としてもしくは、その正しさを測るための規範として利用するというもの。ドレツキなどが展開。

情報の流れと理論: ドレツキは情報の流れという概念を使って知識というものを定義した。まぐれ当たりを知識とみなさない、ゲティア問題に対処可能、逸脱因果を排除できる、など最低限の要件をみたすが、認識者の知識状態という内在的な概念などの背景的知識に依存するという課題が大きい。とはいえ、「知識を自然現象の中に位置づけるという新たな視点の導入」「信念の中で正当化というテストをパスしたものに知識という尊称を与えるという概念を解体し、逆に以下に知識が可謬性を獲得するのはなぜかという視点を開く」「正当化を知識のよさを表す指標として利用するという視点」などを提供できる。

第 II 部 (5章-7章)

懐疑論とは: 懐疑論は単に何もかもが疑わしいとか、正しさの基準を青天井に高めるという態度ではない。何らかの論証によって支えられる必要がある。強い懐疑論は「知識」と「正当化された信念」両方に懐疑を向け、弱い懐疑論は「知識の概念」に懐疑を向けしたがって正当化の強弱という語りは有効となる。

水槽の脳: 有名なたとえ話の枠組み。P: 私は本を読んでいる(などの任意性のかなり高い命題), Q: 私は水槽の脳ではない, □を「・・・と知っている」とする。

  • Ph1: まず ¬□Q を納得させる(水槽の脳でないとは確かに言い切れないと納得させる)
  • Ph2: □P, □(P→Q) ⊢ □Q (本を読むことと水槽の脳であることは両立しえないのでP→Qを知っているといえる)を納得させる
    • 閉包原理/closure principle
  • Ph3: Ph2の対偶とPh1から ¬□P または ¬□(P→Q) が帰結するが後者ではないので ¬□Pが言える

なお、□を「・・・を正当化された仕方で信じている」としても論証はそのまま通用する。

間違いからの懐疑とヒューム的懐疑: X と信じているのだが X は可謬であるという様相的な観点を元に X に懐疑を向ける。ヒュームは(中略)必然性は習慣に基づく心の癖のようなものであり事物の方にそれがあるとは言えないと論じる。水槽の脳や間違いからの懐疑は弱い懐疑論で、ヒュームは強い懐疑論を展開したともいえる。

デカルト『方法序説』: 欺く神を措定しても、欺くという対象である私の存在は欺けえないという論証で「我あり」とする。そして(ここから怪しいのだが)外部世界についての知識を回復するための明晰判明知の規則を正当化するが、ここに循環的な部分があるとみなされるのが標準的・現代的な判定となる。

ノージックの知識の定義: アリスがPを知っているの定義を以下のように定める

  • アリスはPと信じている
  • Pは真である
  • Pが真でない可能世界において アリスはPと信じない
  • 現実に近く、Pが真である可能世界において アリスはPと信じる

三番目によりゲティア問題を退けることができる。四番目は「暗殺者」の問題を排除し、信念が真理をトラッキングする、という性質を定式化したものとみなせる。ノージックの定義では水槽の脳の問題も回避できる(水槽の脳であるかもしれないことは認めるが、ノージックの定義では閉包原理を排除できるので懐疑が拡がらない)。閉包原理の反例を挙げられるからくりは概ね以下の通り

  • □P, □(P→Q) から □Qが帰結しない理由
    • Pでない世界W1とQでない世界W2を考える
    • □Pなので、W1ではPと信じない
    • W2はW1とは違うし極端な話全然違っている場合も考えられる。W2においてはQを信じることは可能。

第 III 部 (8章-11章)

基礎づけの困難の先: 伝統的認識論における基礎づけには二つの側面がある。概念的/conceptual な側面(≒より少数の明晰な概念に翻訳する)に関してはZFC等の部分的な成功例はあるが決定的ではない(空集合の存在が明晰であろうか?)。また、学説的/doctorinal な側面(≒怪しげな命題を明らかな命題から引き出す)においてはヒュームもカルナップも上手くいっていないと評される。なので以下のように修正が必要「科学理論と感覚経験にはギャップがあるものの、翻訳的還元が上手くいけば科学的知識の証拠を感覚的証拠でありまた、語の意味の理解は感覚的経験に結び付いている」。

心理学と認識論: 上記のように捉えると知識に関する主題は「感覚経験から理論がどのように構成されるのか」と捉えられる。こうすると心理学の方がずっとうまくやれる。もしカルナップのような再構成(≒翻訳)に意味があるとすればそれは概念的/conceptual な側面であるが、デュエム=クワインのテーゼで否定される。心理学が伝統的な認識論の役割を引き受けるときそれは自然化された認識論という。伝統的認識論(=経験から構成し自然科学を認識論に包摂する)から新しい認識論(=認識論を心理学とみなし経験的心理学や脳科学を道具立てとして探求を行う)という価値観の転回を見て取れる。第一哲学という幻想を捨てなければならない(哲学と科学は同じ船に乗っている=ノイラートの喩えを援用したクワイン)

自然化された認識論: 以下の論点で認識論の転回を見て取れる:

  1. いかにして信念に達するべきか
  2. 実際にいかにして信念に達しているか
  3. 信念に達するプロセスは信念に達するべきプロセスと一致するか

伝統的認識論では1,2を分業化(哲学者を前者、心理学者を後者)するものとみなせるが、自然化された認識論では 2が重要となるが、1,2は色々な形の関係性があり得る。1は規範性を扱い2は事実的な問題なので1が即座に不要というわけではない(次章)。

規範性の扱い: 「1.は規範的であり 2から直接は出てこない」という批判にどう応答するか?それは知識が持つ規範性を仮言的(=・・・という目的のためには・・・でなければならない)と見ればよいとする。知識における上位目的は「真理への到達」であり、そこにおいて事実との突合が成功するべき(=規範性が現れる)となる。

上位目的は「真理への到達」か?: スティッチの指摘(=生き残るという目標のために真なる信念の形成は必須とは言えない)のように、認識論において信念は必須であるというバイアスは、再検討が必要なのかもしれない。(後略)

認知的プラグマティズム: スティッチの論証を一般化するとこうなる「どの認知プロセスがよいのか(=規範性)を文化・社会によって与えられた評価概念を分析して決める(≒概念分析に訴える)ことはできないのだ。認知プロセスの善し悪しは、(真理への到達以外の)我々の目的が上手く果たされるかどうかの結果をみて決めるしかないのだ。

社会と認識論: デカルトもクワインも知識の個人主義の典型例だ。一方知識は何らかの権威によって得られるなど、社会的なつながりの中で獲得されることも多い(認識論的依存)。自然化された認識論では、その性質上 知識の社会との関わりは避けて通れない。認識論の社会化も自然化と同時に考察しなければならない。

認識的依存か集合的知識か: p, q, p→r, q⋀r → s ⊢ s という推論に関連する話題。

  • Aはpだと知っている
  • Bがqだと知っている
  • Cはp→rと「Aがpだと知っている」を知っている
  • Dはq⋀r → sと「Bがqだと知っている」と「Cがrだと知っている」を知っている
  • Eは「Dがpであると知っている」を知っている

上記のネットワークにおいて、pが知られたのは事実だろうが、知ったのはだれかということになる。ここにおいて、二つの選択肢すなわち、認識的依存を知識として大々的に認めるか、知識は個人的に還元されない(=集合的知識)がある。

双子地球に学ぶこと: 双子地球の例では、心的状態の内容は心・脳の在り方だけで決まりその他のものには左右されないという独我的な見方が、批判されているとみなせる。また、信念内容が自然的環境ではなく、言語的・社会的な環境に左右されることも示される。