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面白い話たち

現在のフランス国王は禿である: フランスが王制の国ではないことを考慮すると、この文は意味不明だ。しかし 我々はこの文を無意味ではなく偽であるとみなす。そのメカニズムを現代的な論理学では∃!x.King(x)⋀Bald(x)のように説明する(byラッセル)。「ペガサスは存在しない」のような架空の固有名を含む文や「明けの明星は宵の明星である」のように指示対象が同一なものに対する文に対して我々が感じる有意味性も説明できる。なお、別の分析も可能(クワイン・クリプキ等)

4/6は既約分数? : 2/3 は既約分数である。2/3 と 4/6 は同じ数である。ゆえに 4/6 は既約分数である。なにがおかしいか?これは、「・・・は既約分数である」という述語が、数に関する述語ではなく数字に関する述語だからだ。だから正確には以下のように書かなければいけない: 「'2/3' は既約分数である。」同様な事例として、「'太郎'は名前である。」「'富士山'は三文字である。」。キーワード: カルナップ、準構文論的な文

運動方程式は何なのか?: 「ニュートンの運動法則が発見された」と言われるが、これは「力の定義を与えた」ともいえる。力の同一性を主張する際にニュートンの法則(作用反作用の法則=第二法則)に訴える必要があるからだ。同様な事例として、光速度不変の法則 がありこれは 時間の定義を与えた ともいえる。一般化すると、「経験命題だと思われていたものを分析命題にしてしまう」ことを科学者はやることがある。この考え方はホーリズムへとつながる第一歩だ。

述語は性質の名前なのか?: ちがう。有意味であることと、何かの名前であることは違うし、有意味であるためになにかを指示していなければいけないということはないから(クワイン流に考えた場合)。

論理を規約から引き出すためには論理が必要となる: クワインの言葉だが、ルイスキャロルのパラドックスですでに示されている。規約=論理学における推論規則 とすると、論理全体を推論規則から導く出すことはできないという主張になる。

よくある命題の分類: 論理的真理(AV¬A)・分析的真理(独身者は結婚していない)・経験的な命題。分析命題と総合命題。アプリオリな命題とアポストテリオリな命題。

心臓と腎臓 ~外延の一致は何を語るか~: 経験により外延の一致を見たとする。例えば調査等の経験によって 心臓を持つという述語 と 腎臓を持つという述語 の外延が一致したとする。この場合、述語を互いに交換しても命題の真理値は変わらないので交換可能だ。一方様相を取り入れると、述語の交換可能性は否定される。(例:'必然的に心臓を持つ動物は心臓を持つ' の最初の心臓に腎臓を代入できない)。したがって、外延が一致 は 述語の同義を必ずしも意味しない。

あそこに人間の生まれ変わりがいる: 兎とは人間の生まれ変わりだ、と信じている社会において 'ガヴァガイ' という語が兎がいる状況で発せられているとき、その言葉を「あそこに人間の生まれ変わりがいる」と翻訳することはできない。なぜならわれわれは冒頭の言明を信じていないからだ。これは翻訳の不確定性の一例である。ちなみに、翻訳の不確定性であり、翻訳の不可能性ではないことに注意。

ペガサスは存在するか?: ペガサスが存在しないというとき、存在しないものについて言及しているように見える。その時我々は何について語っているのだろうか?うまい対応はラッセル・フレーゲがやったように、固有名も述語化する、すなわち '...はペガサす' というわけだ。そして議論領域に含まれるものに対して我々は存在論的にコミットする。つまり、存在するとは変項の値になるということだ

重要人物をチェック

クワイン: ホーリズム@『経験主義の二つのドグマ』。翻訳の不確定性@『ことばと対象』。「ペガサす」、「存在するとは変項の値になること」

1.『分析哲学講義』に沿って

『分析哲学講義』青山拓央 ちくま新書

1-1. 意味はどこにあるか?

意味の心理主義は「言葉の意味は人の心のイメージ」と主張する。意味が人に依るので私秘的。それなりの説得力があるが、意味とはもっと公共的・客観的であるという直感が20世紀の哲学を動かした。

意味の指示説は「'X'の意味は それが指し示すものつまり X だ」という身もふたもないものだ。固有名には明らかに正しそうであるが、赤いなどの属性語・金属などの普遍者・数・論理語(例:全ての)などなどが何を指しているのか釈然とせず、どこかにそれがあるはずだというプラトニズムに近い概念を必要とすることが多く批判される。とはいえ、確定記述句を述語に変換する技法(フレーゲ)「存在するとは変項の値になることだ(クワイン。ペガサスる)」など注目に値する概念は山ほどある。特に、L.W.の『論考』でも示されたような、世界はそのようにできている(言葉が分解し再構成できるのと対応するように世界は分解再構成が可能である)という洞察は20世紀の哲学のハイライトである言語論的転回の象徴だ。

意味の検証説は『論考』に触発された(≒誤読した)思想で、言語の意味をその検証可能性に求めるもの。論理的な命題および検証可能な命題(要素命題)それらを組み合わせたもので構築し、それ以外を形而上学的なものとして排すというもの。ただ、このテーゼを具体化することができず萎んでしまった。一番あてはまりそうな自然科学の分野ですらそれが不可能であったのだ(例:全称命題・傾向性の問題)。

全体論は、意味の検証説に引導を渡した思想(デュエム・クワインテーゼや『経験主義の二つのドグマ』)。これはフレーゲの文脈主義を敷衍したものととらえることもできる。二つのドグマは、意味の検証説を否定するとともに全体論の中心的思想を表す。1:要素命題一つを取り出して検証することは不可能。2:論理命題と経験命題というような区別は存在しない

以上いくつかの考え方はそれぞれ異なるが、共通しているのは「意味がどのように働くか」に関する認識だ。つまり「言語を受け取り意味を抽出し、次の行動をする」というサイクルが前提となっているために意味の理解が重要とされる。このような前提を完全に覆すような考え方が意味の使用説。意味の使用説においては、行動と行動の間に挟まった媒介物(=意味)は存在しない。言語と行動は種類の異なるモノではない。言語は意味を運ぶ乗り物ではない。意味は行動を引き起こす媒介物でもない。意味を理解するとはコミュニティにおいて言語を用いて上手くやっていくことだ、となる。

1-2. 形而上学ふたたび

クリプキによる様相論理の完全性証明および意味論の定義により、新しい論理学が整備された。特に意味論の発展は可能性・必然性といったいわゆる形而上学的な議論を再び分析哲学の主題とするに至る。例えば様相概念の下での同一性を指示の因果説という概念により分析する、など。言語的な取り決めを超えて形而上学的な様相を論じることがタブーでなくなった。

以下の言葉は象徴的だ:必然性・可能性とは事物がどんなふうに存在しうるかに関する形而上学的な概念であり、私たちの認識とも言語的取り決めとも独立である。金が元素であることの必然性は、金が元素として存在することはあり得ないという形而上学的な必然性であり、なんらかの認識の仕方や言葉の定義によってもたらされたわけではない

2.『言語哲学入門』メモ

入門書なのであまりこれといったことはないが、見慣れない論者が登場していたので要約

ストローソン: ラッセルの記述理論への批判。ラッセル流では話者がフランス国王の存在を主張しているように分解されるが、そうではなく、話者はフランス国王の存在を前提としているという指摘。反論:ラッセルは文の意味を対象としているのに対し、ストローソンは発話を対象としているのでその指摘はあたらない。

ドネラン: ラッセルとストローソンの論争に対する第三の意見。確定記述は「指示的使用(例:あの人)」と「帰属的使用(例:あの犯人)」の二種類がある。折衷案ではなく使用をもとにしているのでストローソン寄りの立場といえる。

サピア=ウォーフの仮定: 言語が文化を規定するという仮説。

グライスの協調の原則: 円滑なコミュニケーションのための原則であり、これに準ずることでアブダクションなどの推論を綺麗に説明できる。